バトンを渡す社長と読む製造業のこれから③腕を磨けば、給料はついてくる?給料が毎年上がった時代

※この連載は、「後継ぎ専務と読む製造業のこれから」と同じ出来事を、川口の金属加工会社の社長で、専務・宮田健太さんの父である正一さんの側から見直すものです。正一さんの言葉の背景にある時代の価値観を、昔と今のデータで読み解きます。登場人物と会社は、公的な統計や調査をもとに組み立てた架空のもので、実在の企業や個人とは関係ありません。引用した数字の出典は、記事の最後にまとめています。
※この連載でいう「ものづくり中小企業」は、中小企業基本法で中小企業とされる製造業の会社(資本金3億円以下または従業員300人以下)を指します。なかでも、従業員が数十人〜100人ほどの会社を主に想定しています。
若手の相談を聞いた夜

春の賃上げのニュースが続いた翌週の夜。夕食のあと、息子で専務の健太さん(仮名・34歳)が、社長の正一さん(仮名・72歳)に切り出しました。入社3年目の工藤さん(仮名)が、高校の同級生から大手の工場に誘われているというのです。
「親父、給料を上げないと、若いのはみんな辞めるよ」
「材料も電気代も上がってるのに、どこにそんな金がある。俺の若い頃は、給料より腕を磨いたもんだ」
「その話、今の若い子には通じないんだって」
台所で帳簿をつけていた妻が、「大手と同じだけ出せたら、苦労しないわよ」とつぶやきました。
健太さんが部屋に戻ったあとも、正一さんはしばらく居間に座っていました。工藤さんは、正一さんが自分で旋盤の前に立たせ、一から仕込んできた若手です。段取りの飲み込みが早く、「あいつは伸びる」と口には出さずに思っていました。
正一さんが18歳で先代の父の工場に入ったころ、給料は毎年のように上がりました。先代はよく言っていました。「腕を磨け。給料は後からついてくる」。その言葉どおり、腕が上がるにつれて任される仕事が増え、給料も上がっていきました。同じころに入った仲間で、辞めた者はほとんどいませんでした。
「辞めたいなら、止めはしない」。そう言いかけて、正一さんは言葉を飲み込みました。
正一さんは思います。「腕を磨けば、給料は後からついてきた。あいつらには、それが見えないのか。それとも、うちが見せてやれていないのか。」
あの頃は:給料が毎年上がり、長く勤めるのが当たり前だった

正一さんが「腕を磨けば、給料はついてくる」と信じてきた背景を、当時のデータで見てみます。
厚生労働省の集計によると、大手企業の春の賃上げ率は、1974年に32.9%に達しています。正一さんが20歳のころです。1980年は6.74%、正一さんが36歳の1990年も5.94%でした。給料は、勤めていれば毎年上がっていくものでした。

厚生労働省の「平成19年版 労働経済の分析」は、日本の雇用の特徴について、企業への長期の勤続の傾向を示す「長期雇用」や、年齢・勤続に伴って賃金が上昇する「年功賃金」が、「国際的にみても強く表れている」としています。
給料が毎年上がり、長く勤めるほど報われる。そういう時代には、「今は給料より腕を磨け」は、給料を後回しにする言葉ではなく、先で報われることを前提にした約束だったと考えられます。
今は:上げ方を示す会社が選ばれる

その後、賃上げ率は下がり続け、2003年には1.63%まで下がりました。正一さんが経営を担うようになったころは、給料がほとんど上がらない時代だったことになります。
ところが今は、また動きが変わっています。2025年の賃上げ率は5.52%です。「後継ぎ専務と読む製造業のこれから」第3回で健太さんが調べたように、大手は大卒の初任給を28.7万円に引き上げ、役割やスキルで給与を決める仕組みへ移っています。
若手は、勤めていれば上がるのを待つのではなく、「何ができれば、いくらになるのか」を見て会社を選ぶようになっています。上がるのを待つ時代から、上げ方を示す時代へ変わったと考えられます。
健太さんが読んで分かること

健太さんから見れば、「俺の若い頃は腕を磨いたもんだ」は、給料の話から逃げているように聞こえたかもしれません。けれど、正一さんにとっては、腕を磨けば給料は必ずついてきた、実際の経験です。
正一さんが伝えたいのは、「給料はどうでもいい」ではなく、「腕を磨けば、必ず報われる」という自分の確信だと考えられます。ただ、その約束が今の若手には見えていない。そう分かると、「給料を上げろ」と迫るのではなく、「親父の約束を、若手に見える形にしよう」と言えるようになります。
専務シリーズ第3回の「給料の見通しを示す」は、正一さんの「腕を磨け」を否定する話ではなく、今の若手に届く形に置きかえる話だと言えます。
で、どうしたらいいのか

腕を磨けば報われる。その考え方は、今でも若手を育てる大切な軸です。ただ、給料が自然に上がる時代ではない今は、その約束を社長の頭の中から外に出す必要があります。大切なのは、「腕を磨け」を、若手に見える約束にすることです。社長の立場から打てる手として、次の3つが考えられます。
① 腕と給料を結ぶ

どの腕を身につければ、給料がどうなるのか。それを一番よく知っているのは、現場で若手を仕込んできた正一さん自身です。その目利きを、段階と給与の幅として形にすることが考えられます。
- 「一人でこの加工ができたら一人前」など、社長の目利きを段階にする
- 段階ごとの給与の幅を、息子と一緒に決める
- 1枚の紙にまとめ、若手に直接見せる
② 若手の話を聞く

若手が辞めたいと言い出す理由は、給料だけとはかぎりません。先が見えない不安や、評価されている実感のなさが重なっていることもあります。自分で仕込んできた社長が直接話を聞くことは、それだけで若手にとって大きな意味を持ちます。
- 「辞めたいなら止めない」と突き放す前に、一度話を聞く
- 辞めたい理由と、それでも残っている理由を、両方聞く
- 「お前には期待している」と、言葉にして伝える
③ 原資をつくる

正一さんの「どこにそんな金がある」も、経営者としてもっともな心配です。上げた給料を続けるには、原資が要ります。第2回で見た長い付き合いの取引先と、労務費の上昇を価格に乗せる話をすることが考えられます。
- 国の「労務費の適切な転嫁のための価格交渉に関する指針」に目を通す
- 長い付き合いの取引先に、社長同士で事情を話す
- 年に一度、決まった時期に協議を申し入れる
まずは②から
3つを一度に始めなくてもよいと考えられます。若手の話を聞く②は、お金をかけず、今日からでも始められます。仕込んできた社長が直接話を聞くことが、若手を引き止めるきっかけになることもあります。
「腕を磨け」は、見える約束にすれば今でも通じる言葉です。次回は、「家まで担保に入れた」と言った夜の正一さんの側から、借金と個人保証で会社を守るのが当たり前だった時代を見ていきます。
ハーマスの考え方とご提案

合同会社ハーマスでは、若手の引き止めを、社長の思いだけでなく、会社の仕組みで支えられる課題として捉えています。どんな給与の決め方が合うかは、会社の規模や仕事の中身によって変わります。そのため、決まった型を当てはめるのではなく、社長と後継ぎ、現場の双方が納得できるやり方を一緒に探していくことを大切にしています。
このテーマでは、たとえば次のようなご提案をしています。
- 技能の段階と給与の見通しを、社長と一緒に1枚にまとめる
- 国家資格キャリアコンサルタントとして若手と面談し、辞めたい理由と残る理由を聞く
- 賃上げの原資と時期を、社長と一緒に整理する
絵にかいた餅にせず、時には現場に飛び込んで本質を追求し、できたらいいねではなく実際に変化を起こすこと。それを信条に、現場に入って伴走しています。
この連載では、「後継ぎ専務と読む製造業のこれから」と同じ出来事を、社長の正一さんの側から全5回で見直していきます。
出典
- 厚生労働省「令和2年 民間主要企業春季賃上げ要求・妥結状況」(令和2年8月14日公表、第2表 民間主要企業における春季賃上げ状況の推移。昭和49年・55年、平成2年・15年)
- 厚生労働省「令和7年 民間主要企業春季賃上げ要求・妥結状況」(令和7年8月1日公表)
- 厚生労働省「平成19年版 労働経済の分析」第3章第2節(長期雇用と年功賃金)
- パナソニック「2026年春季交渉について」(2026年3月18日)
- 日立製作所「2026年春季交渉回答」(2026年3月18日)
- 中小企業庁「中小企業・小規模企業者の定義」
※賃上げ率は大手企業(民間主要企業)の値です。2003年までは資本金20億円以上かつ東証・大証1部上場企業、2004年以降は資本金10億円以上かつ従業員1,000人以上の労働組合のある企業が対象で、単純比較はできません。正一さんの年齢は、2026年に72歳という設定から逆算しています。